【自炊 | 学术记录】 「御成败式目 现代语译」 汉化 后记:《御成败式目》的产生历程

制作・著作 前武蔵守平朝臣泰時・多賀歴史研究所 多賀譲治(訳者)

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(1232年)「御成敗式目」(ごせいばいしきもく)ができる (鎌倉時代)

1232年,《御成败式目》问世(镰仓时代)

 

「憲法」(けんぽう)とは国の基本を定めた根本の法律です。細かいことは書いてありません。聖徳太子の十七条の憲法では「天皇中心にした政治」「仏教の教えを大切にする」国を目指すと書いてありました。

宪法是规定国家基本事项的根本大法,其中没有写入琐碎的事项。圣德太子的十七条宪法中书定了“以天皇为中心的政治”、“重视佛教教育”的国家战略。

 

「令」(りょう)とは役所の役割と役人の仕事の内容を定めた法です。

“令”是规定役所的职责和役人工作内容的法。

 

「律」(りつ)は犯罪の種類や刑罰を定めた法です。

“律”是规定犯罪类型与刑罚的法。

 

「格」(きゃく)とは、社会の変化にあわせて、律令を部分的にまとめなおしたものです。

“格”是综合社会情况的变化,对律、令予以重新汇编的法。

 

「式」(しき)とは律令を行うときに、実際にあわせてより細かく取り決めたものです。たとえば令で「位によって給料の額が異なる」と書いてあったら「何位のなになにはいくら」と具体的に取り決めたものが「式」になります。なかでも有名なのは延喜格式で、一般には延喜式(えんぎしき)と呼ばれています。

“式”是运用律、令时,根据综合实际情况详细规定的法。例如,在“令”中规定了“根据官品高低,俸禄的金额相异”,“式”则在此基础之上具体规定“什么官品的什么官职可得多少俸禄”。其中著名的为“延喜格式”,一般被称作“延喜式”。

 

「和をもって尊しとなす」と聖徳太子が作られた十七条の憲法をはじめとして、日本では古くから法律が国の政治や人々の生活のよりどころとなってきました。皆さんが学習している鎌倉時代にも法律はもちろんありましたが、なにより特徴的なのは武士の生活にあわせた、分かりやすいものであったということでしょう。それが「御成敗式目」(ごせいばいしきもく)なのです。

自“以和为贵”以及圣德太子制定宪法十七条伊始,日本自古以来即成为依据法律调整国家政治和人们生活的国家。大家正在学习的镰仓时代同样,当然是存在法律的,只不过这个时代的法律最显著的特征是结合武家生活的情况,是不是很容易理解呢,那就是《御成败式目》。

 

それまでの法律は「律令」と言って、言葉もむずかしく貴族や役人にしか分からないようなものでした。一般の人はもちろん武士にとってもよく分からないものでした。

虽说到那时为止的法律已经写成“律令”,对于贵族和官员以外的人来说,识字是很难的,似乎大家都不太能理解。一般人,当然也对武士来说,都不怎么懂法律。

 

飛鳥時代の終わり頃から鎌倉時代の初めころまで、日本はながいあいだ律令によって政治が行われていました。その間には貴族たちに都合のよいように利用されていた時代もあります。国司(こくし=今でいうと知事のような役人)になった貴族の中には、庶民から重い税をとったり奴隷(どれい)のようにこきつかった者もいました。また、力の弱そうな豪族(ごうぞく=有力な農民)の土地をうばう者すらいました。あまりひどいので住民から朝廷に訴えられた(うったえられた)国司もいたほどです。

从飞鸟时代末到镰仓时代初,日本在很长的时期里都通过律令行政。在那期间,也存在贵族们为了方便而利用(律令)的时代。成为国司(在现在类似于知事一职的官员)的贵族当中,也有对庶民课以重税,肆意驱唤虐待奴隶的人。另外,甚至还有掠夺看起来实力不济的豪族(有力的农民)的土地的人。因为过于残暴,甚至到了有国司被住民起诉到朝廷的程度。

 

関東地方は平安時代の中頃から開拓(かいたく)が始まった新しい土地です。人々はまずはじめに利根川、荒川、多摩川、相模川などの大きな川や、その支流を開拓し水田や畑を作っていきました。今は超高層ビルが建っている都心もその当時は雑木林です。やがて、川から用水を引き原野を切りひらき農地も広がってきました。ですが、そういう土地ですから「どこからどこまでが誰の土地」ということがはっきりしなかったり、貴重な水の取り分をめぐって争いがたえませんでした。そこで有力な農民は仲間をふやして武装していきました。これが板東武者と呼ばれる関東の武士の始まりです。武士は一族やその領地をまもるために「しかたなし」に生まれたものでもあるのです。

关东地区是平安时代中期开始开拓的新土地。人们最初首先在利根川、荒川、多摩川、相模川等大和以及其支流处开拓水田,开垦旱地。现今矗立着超高层建筑的中心城区在当时不过是杂木林。最终,从河流取用了水源,水流冲刷开垦了原野,农地也得到了扩大。尽管如此,正是因为这样的土地使得“从何处到何处是谁的土地”这样的事情不能清楚地分辨,围绕贵重的水源取用份额展开的争端没有止境。在那里,有力的农民增加势力,配置武装。这就是被称为板东武者的关东武士的开端。武士是为了保护一族和族领地而在“不得已”的情况下产生的。

 

武士は自分たちを守るために一族を中心に仲間をふやし結束を固めていきました。そのトップが源氏とか平氏と呼ばれる血筋の良い人たちだったのです。源氏や平氏はもともとは天皇の子供ですが、たくさん生まれたときなどに臣戚(しんせき=天皇の家来)になった人たちです。源氏や平氏の中には国司として地方にいく者もいました。こうした人たちの中にはそのまま地方に残った人もいました。豪族たちは積極的に源氏や平氏と親戚(しんせき)関係になりますます結束を固めましたが、やはり争いは残っていました。このようなところでは法律はあっても無いようなものです。武士たちは安心して暮らせる世の中を待ち望んでいました。

武士为了保护自己,以一族为中心地增加同伴,加强团结。其中势力最强者为被称为源氏和平氏的两支优良血统。尽管源氏和平氏本来是天皇的子嗣,但是这样的孩子出生的过多,他们降为了臣戚(天皇的家臣)。在源氏和平氏中,有一些人作为国司去了地方。这些人中有一些人就那样留在了地方。尽管豪族们积极地与源氏和平氏结交亲戚关系,逐渐地变得团结起来,然而果然还是留有争端的火种。这样的地方法律有也跟没有一样。武士们始终殷切盼望着能够安心祥和度日的世间之到来。

 

そこへ登場したのが源頼朝というわけです。頼朝は平家から命をねらわれていたために伊豆で兵を挙(あ)げましたが、それは地方の武士、なかでも相模(さがみ=現在の神奈川県の一部)や下総(しもふさ=現在の千葉県の一部)の有力武士の後押しがあったからなのです。相模の有力な武士である三浦氏や中村氏、それに千葉氏一族が中心となって、武士に有利な勢力を関東に築こうとしたのです。平氏を打倒(だとう=たおすこと)するためには源氏の嫡流(ちゃくりゅう=正当なあとつぎ)である頼朝はとても大切な存在でした。

※このことをくわしく知りたい人は幕府を創った相模の武士団へ

此时源赖朝登上了历史的舞台。由于身家性命被平家盯上,赖朝在伊豆起兵,因为那里有地方的武士的支持,其中尤以相模(现在神奈川县的一部分)和下总(现在千叶县的一部分)的有力武士最具代表。以相模的有力武士三浦氏和中村氏,以及千叶氏一族为中心,正意图在关东打造对武士有利的势力。为了推翻平氏,赖朝这位源氏的嫡流(正当的继承人)是非常重要的存在。

        若对上述内容感兴趣,可以查阅关于创建幕府的相模骑士团的资料。

 

頼朝は戦のはじめから、手柄(てがら)のあった者の領地を認めたり、敵からうばった土地を分け与えることを書いた「下文」(くだしぶみ)を与えています。「自分の領地を保証してくれる」「新しい領地がもらえる」ということは武士にとって最も大切なことでした。あてにならなかった国府の役人やわけの分からない「律令」より、頼朝が書いてくれた「下文」のほうがはるかに有効で有りがたかったのです。このことを知った関東の多くの武士団が頼朝に味方しました。

赖朝自战争之初,就将领土奖励给有功勋的人;对于分发从敌人那里夺取的土地,予以发行书面的“下文”(地位高的人向地位低的人发行的文件)。对于武士来说,“自己的领地得到保障”以及“能够得到新的领地”是最重要的事情。相比起靠不住的国府官员和莫名其妙的“律令”,赖朝书授的“下文”要远远更为有效和珍贵。大量认识到这件事的关东武士团都投靠了赖朝。

 

石橋山で九死に一生を得、おびえながら逃げ込んだ安房(あわ=千葉県の東部)からわずか一月で頼朝の軍勢が数万に成長した理由がここにあります。

※このことをくわしく知りたい人は鎌倉幕府が出来るまでへ

经历了在石桥山的九死一生,从带着惊恐逃入安房(位于千叶县东部)到军队势力突破数万不过一个月时间,理由即为上所述。

        若对上述内容感兴趣,可以查阅直到镰仓幕府成立时的史料

 

頼朝は平氏との合戦の前に武士の組織を作りました。これまでバラバラだった関東の武士が頼朝を中心に初めてまとまりました。更に頼朝は平氏との戦いに勝ったのちに国ごとに守護、荘園や国衙領(こくがりょう)ごとに地頭を置きました。この時に守護・地頭が配置されたところは、すでに武士の支配地だったところや平家からうばった場所に限られていましたが、頼朝はこのことによって全国の武士をまとめる足がかりを作りました。

※国衙領=朝廷に税を納める国府の支配下にある領地(農園)のこと(荘園ではない領地)

※このことをくわしく知りたい人は移り変わる幕府の組織へ

赖朝在和平氏进行合战前,建立了武士的组织。直到那时为止的松散武士个体第一次以赖朝为中心聚集在一起。在赖朝取得与平氏之间战争的胜利后,更是在每个封国设置了守护,在每个庄园和国衙领中设置了地头。此时配置了守护和地头的地区,虽然被限定于已经是武士的支配地或从平家过去的领地中夺取的地方,但赖朝据此已经建立了统一全国武士的立足方案。

        国衙领:指向朝廷纳税的,处于国府支配下的领地(农园,但不是庄园领地)

        若对上述内容感兴趣,可以查阅关于幕府组织变化的资料

 

やがて、承久の乱で関東の武士たち(御家人)が朝廷の軍に勝つと、武士の支配地は近畿地方を中心に西日本に急速に増えていきました。それにしたがって、それまでそこにいた人々との間のいざこざが増えていきました。また、家や土地の相続問題や御家人の仕事を明らかにしておくことも必要になってきました。こうして作られたのが「御成敗式目」です。

※承久の乱のことをくわしく知りたい人は承久の乱はなぜ起きたのか・乱の後は何が変わったのかへ

最终,在承久合战中,关东的武士们(御家人)战胜了朝廷的军队,武士的支配地以近畿地方为中心向日本西部急速扩大。从而,(新进入西日本的武士和)到那时为止在那里生活的人们之间的纠纷出现增长。另外,明确家产和土地的继承问题,以及御家人的职责也成为了必要准备的事宜。为解决这些问题所作的即是《御成败式目》

        若对承久合战感兴趣,可以查阅关于承久合战的起因、合战后发生了什么变化的史料

 

御成敗式目は北条泰時を中心に有力な御家人、学者、役人たちによって作られましたが、律令にくらべてこれまで武士が習慣としてきた約束事や、生活、心情にあったものになっています。式目を読めば分かるように「土地のこと」「相続のこと」「仕事のこと」が中心で、鎌倉時代の武士が一番大切にしていることがなんであるかがよく分かります。武士にとって「土地」は命でもあるわけで、これを守るために仕事があるといっても言いすぎではありません。御成敗式目は武士の生活を守るための法律と言っても良いのです。

《御成败式目》是由以北条泰时为中心的有力御家人、学者、官员等共同制定的,与律令相比,御成败式目的内容包括到制定为止时,作为成为武士习惯的约定、武士的生活以及心情。为了理解,阅读本式目时,要深刻认识以“关于土地的事情”、“关于继承的事情”、“关于职责的事情”为中心,对于镰仓时代的武士而言,没有比这三类事情更加重要的了。因为对于武士来说,“土地”就是生命,要说武士是为了保护土地才具有义务也不为过。可以说,《御成败式目》是一部为了守护武士生活而制定的法律。


全译终

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